守安祥太郎 響ジャズ 1

守安祥太郎 響ジャズ1

「ウイスキーはひとりで飲む酒.。何か思索にふけるとき、一杯のシングルモルトとジャズがあればそれでいい 」byマスター。

叔父と会うのは10年以上ぶり、最後にあったのは確か、ばあちゃんのお葬式だったと思う。そんな事を考えながら新幹線はゆっくりとホームに止まった。久しぶりに会う叔父は、当時の面影をそのままに、ひとり改札に立っていた。

「久しぶりだな元気か、腹減ったろう」そう言って駅を出ると叔父は今にも降り出しそうな空を見上げながらタクシーに手をあげた。

「ここ美味いんだよ、よく来るんだ」叔父は若い定員の子に笑顔で挨拶し、テーブルに煙草を置いた。久々に会った叔父との一番の思い出と言えば、なんだろう?私は家族の近況をあれこれと喋り、最近はジャズをよく聴いてることも話した。すると、叔父は、1000枚を超えるレコードのコレクションの事や、日本の有名なプレイヤーについて、さっきとはまるで別人のように語り始めた。まだジャズについて、無知な私は、聞き慣れない名前や、専門用語らしい言葉に、相槌と興味を示していた。そうしていると中華料理がテーブルへ運ばれてきた。

「一件飲みに行こうか!」 お酒を辞めてる叔父が言った。2人は店を出て、ついさっきから降り出したと思われる雨を気にもせず、青色のビルまで歩いた。少々急な螺旋階段を3階か4階まで登ると、ガラス扉の向こうにカウンターが見えた。中に入るとオレンジ色の薄明かりで照らされたレコード棚の奥から、60代くらいであろう細身の男性が現れた。

ジャズバー


「いらっしゃい」マスターらしきその男性は言った。叔父は、何の説明もなく座り、コーヒーを頼んだ。私も席に着き、酒棚の中央に置かれていた響が目に入り、ロックで注文した。あらためて店内を見渡すと、他にお客はいなかった。テーブル席の奥に大きな鉄のスピーカーとアンプがあり、棚にはレコードが犇めき合っている、ここは老舗のジャズバーで、叔父は常連なのだろうと勝手に推測した。禁酒中の叔父は、人が普通に吸うであろう倍の速さで煙草をふかし、また火を付けた。贅沢に削り出された丸氷を傾けると、静かにグラスが鳴った、響の円熟したまろやかな口当たりが心地よく、身体の力がスーっと緩む感じがした。

「もりやすしょうたろう知ってる?」
「え?」
「守安祥太郎」
「あ、いや知らない、誰なの?」

同時にマスターも、嬉しそうなにこやかな顔で、レコードの表紙を指で指した。

「無名の天才ピアニスト、守安祥太郎だよ」

「無名の天才ピアニスト」

「ジャズは哲学みたいなもんさ、何がいいのか、よくないのか、どう好きで、どう嫌いなのか、聴きながら常に自分に問うのさ、そうすれば勝手に分かってくるよ」とマスターは語り、「HISTORIC MOCAMBO SESSION`S」と書かれた表紙からレコードを丁寧に取り出すと、プレイヤーにそっと載せ針を落とした。

これが、守安祥太郎との出会いである。

モカンボ


本物のジャズはこういうものだ!1950年代、大衆受けする音楽に反発するように、日本の若きジャズ演奏者たちはアドリブを多用したジャムセッションを繰り広げ、まだ理解の及ばない聴衆たちをよそに腕を磨いていった。

横浜の伊勢佐木町に「モカンボ」と言うジャズ・クラブがあった。そこへ1954年7月29日、日本の若きジャズ演奏家が大集合し、後に伝説となるジャズセッションが開催されることとなる。今では日本を代表する殿堂ピアニストの秋吉敏子をはじめ、渡辺貞夫、中村八大や、本場一流のジャズメン、ハンプトン・ホーズなどもその場に居合わせた。

会場入り口は植木等が担当、仕切り人・金銭管理役としてハナ肇がそこにいて(後のクレイジー・キャッツ)、ジャズセッションはモカンボの営業が終わった深夜から開始された。営業後にもかかわらず会場は盛り上がり、ほぼノンストップで、翌日の昼過ぎまで演奏されたという。当時の日本は、ジャズといえば、それはスイングジャズを指していた時代。しかしこの夜は、形式ばった今までの大衆向けジャズ演奏ではなく、本場の最新ジャスを超えるほどの型破りな即興を交えたセッションが、日本人ジャズ演奏家達にによって演奏されたのだ。

そしてそこに守安祥太郎というピアニストがいたからこそ、伝説というにふわしいジャズセッションとなったのは間違いない。

「マスター、響もう一杯いいですか」スピーカーからは、凄まじいピアノの演奏が流れている。

「マスター、守安祥太郎さんって今も現役ですか?」

「ん?」

「自殺したんだよ、確か1956年だったかな」叔父が煙草に火をつけ、目を擦りながら言った。

「自殺!?ですか?」

「ああ、鬱病だったと言われているようだけど、本当のところは誰もしらん」

進駐軍キャンプ


日本におけるジャズのルーツは、戦後1945年、アメリカ進駐軍キャンプまで遡る。進駐軍とは、他国に進軍して、そこに駐屯している軍隊のこと。終戦後、日本へやって来た連合国司令官ダグラス・マッカーサーは、治安や政治経済の統治を目的とし多方面にわたって動き始めた。当時、アメリカ進駐軍の兵隊たちの間で、ダンスミュージックとしてスイングジャズが好まれていました。奔放に踊り楽しむ兵隊の姿を見た日本人は、戦争に敗れ衣食住に苦しみながらも、今までとは違う”自由”という解放感に触れることとなった。進駐軍のラジオからはジャズやポピュラーソングが流れ、国民は初めて聞く歌や軽快なリズム、管楽器の音色に自然と波長を合わせ、戦争の悲劇から、ジャズという音楽を通じて交流がうまれていったのは確かだろう。当時はレコードもなかなか手に入らなかったので、ジャズに興味を持った日本の音楽家達は、進駐軍キャンプで兵隊から譜面をもらったり、ラジオから流れる音を採譜したり、協力し切磋琢磨することで、技術を磨いていったのだ。後にはアメリカのジャズプレイヤー不足を、日本のジャズミュージシャンによって補う流れが出来上がり、技術に応じた雇用形態もうまれた。これが日本のジャズ史の幕開けとなるのです。

守安祥太郎 響ジャズ2へつづく~

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